小説 《母子像》

村井正己
学校法人東海大学教職員、屋外彫刻調査保存研究会会員

 sCIMG2832昭和37年のある日のこと、彫刻家山内壮夫は、来年できる砧公園の予定地に来た。彼のアトリエからはそう遠くはない。歩いてきたのだ。彼はつぶやいた「大きな敷地だな。まだ、佐藤先生はきてないな。」
 「おーい!山内君」と山内の後ろから呼び止める声が聞こえた。建築家の佐藤武夫である。「落ち会う約束にはまだ早いのにさすが山内君はまじめだね。」
 山内は照れ笑いをして、「いえいえ、先生をお待たせする方が、気がひけてたまりませんので、早く来ました。」
 落ち合った二人は、現場事務所に行き、担当者と打ち合わせをした。
 砧公園には、当初リクレーション公園としての機能を持たせ設計したが、工事をしている最中に、一つぐらい彫刻を置いた花壇を作ろうと話が出て、誰かすぐに作ってくれる人がいないかと急な人探しが始まり、その話が佐藤武夫の耳に届き、それでは友人の山内壮夫にやらせてみたいと現場事務所に申し出た。事務所は快諾して、今日の打ち合わせの約束となったのだ。
 打ち合わせが始まった。
 佐藤が開口一番「どんな彫刻を置いた花壇にするのですか。大きさは、予算は、どの程度でやりますか。」
 担当者は図面を広げ、「バラを主に植えたバラの小さな花壇です。予算は急な話だったので、少ししかありません。」
 佐藤は、「これはコンパクトな花壇だ。山内君、君の彫刻の案が何かあるかな。」
 山内は、「ありますよ、バラの花壇なら、赤ちゃんを抱いた母子像がいいですね。今、案を書きますので。」というなり持ってきたスケッチブックに母子像を急いで書き始めた。小一時間の内に5枚描いた。
 その速さに担当者は驚いたが、もっと驚いたのは書かれた母子像は建築の設計図のように厳密で正確なものであった。「山内さん、これはすぐに使える設計図ではないですか。すごいですよ。これで行きたいと思います。」担当者は冷めたお茶を一気に飲んだ。「あのですね。予算が少ないのですけど、これを実現させたいです。」
 山内は明るく笑って、「気に入ってくれましたか、有難うございます。」予算が限られているのなら、私の得意なコンクリート彫刻でやりましょう。どうでしょうか。」
 担当者は笑って「有難うございます。」よろしくお願いいたします。」と、「予算はこれだけです、大丈夫ですか。」と予算額を提示した。山内は明るく笑って「この予算ならできます。大丈夫です。」と答えた。
 佐藤が笑った。「これで交渉成立だ。」
 
sCIMG2838 そして、一年後春のある日、彫刻と花壇は完成した。山内の心のこもった母子像が公園に現れた。
 完成した日、山内は佐藤と工事事務所で落ち合った。
 佐藤は山内に会うなり、「完成おめでとう。しかしどこかで見たことのあるような彫刻だな。設計図の段階から、思っていたんだが、誰かの参考にしたかな。」
 山内は、「先生私の沢山みていらっしゃるので、他の作品と同じに見えるのではないでしょうか。」そして続けて、「私の作品はすべてが連続した連作のようなものですから。ただ言えるのは、ヘンリー・ムーアさんの作品の影響を最近強く受けるようになりましたから、それが出ているのかもしれません。でもすべて私の独自のオリジナルの発想の作品です。」
 佐藤は、「そうか、そうか。確かにそうだね。君の作品は一つの作品で終わらない。すべての作品が次から次へとつながっているんだね。」sCIMG2840
 担当者が入ってきた。「先生方ただいま完成しました。見に行きましょう。」
3人は彫刻のある花壇に出かけた。
そして山内は自分の作品を見ながら、「これで自分のアトリエから近いところに、一つ作品が置けてよかった。」とつぶやいた。

ときは流れる。
sCIMG2831今では砧公園に山内壮夫が作った「母子像」の存在は忘れ去られ、その隣の敷地の世田谷美術館の野外彫刻が目立つようになってしまった。
もし世田谷美術館に、砧公園に行ったら、母子像を見て欲しい。40年以上風雨にさらされても、その母子像の優しさ・暖かさはときを超えて、変わらない。花壇を公園を見守っている小さな母子像。山内壮夫の優しさ、温かさは母子像を通じて後世に残るのであろう。

 

*(1995年頃ヘンリー・ムーア、佐藤忠良、舟越保武作品に出会い、彫刻を鑑賞・勉強し始める。1996年札幌に1年勤務、山内壮夫作品との運命的な出会いをする。東京都町田市在住)
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